大阪狭山市のだんじり祭の感想

今日の夜は、家の近所の南海高野線金剛駅に行ってきた。
目的は、地域(大阪狭山市)の秋祭り、「だんじり祭」を見にいくこと。
このだんじり祭、名前こそ「だんじり祭」だが、地元から愛されている祭かと言えば、?が付く祭としても有名。
この大阪狭山市や富田林など南河内のだんじりは、だんじり祭としては異色、悪く言えば邪道扱いさえ受けている祭だ。

地域外の人たちからは、
・邪道だんじり祭
・ヤンキーだんじり

・カラオケだんじり
しまいには、「恥ずかしい祭」とさえ呼ばれる。さすがにここまで言うのはどうだろう・・・

ただ、興味深いのは大阪狭山市の行政HPに寄せられた市長への提言ページ。
http://www.city.osakasayama.osaka.jp/7,2486,34,231.html
http://www.city.osakasayama.osaka.jp/7,6834,34,231.html
http://www.city.osakasayama.osaka.jp/7,9842,34,231.html

まあ何ともヒドイ言われようだ。
都合の悪いことはあまり書きたくない行政サイトにここまで書かれるくらいなのだから、地元民からどう思われているかは想像に難しくない。

自分は隣の富田林市民だけど、富田林のだんじりも同じようなもので、大阪狭山市の市政サイトを見ていると市の苦悩を大きな声で言えないまでも、どうにかしたいという思いを非常に感じとることができる。

まあ確かに今まで何度か地元のだんじりを見ているけど、岸和田のだんじりとは全くの別物(生声ではなくマイク使用、地元のヤンキーがなぜか勢揃い、祭というよりジャニーズコンサートなど)、祭に関わっていない地元民からここまで支持の低い祭も珍しいかもしれない。

あとこの話の前提として抑えておかないといけないのは参加している町会について。
地元市民は全て参加していると思われがちだけど、そもそも歴史ある町会にしかだんじり用の山車(だし)は存在していない。

特に南海と近鉄に挟まれた人口の多い一帯は30年くらいまで野原だったところで俗に言うニュータウンと呼ばれるところが多い。
なので自分が住んでいる(富田林)町会も町の歴史が浅いので、山車なんて存在せず、だんじり祭なんて正直何の関係もない地域。

という訳で本題として見てきた感想を。
1
金剛駅に集結した山車(だし)。5~6つあったのでその数の町内会の山車。
山車自体は精巧に造られけっこう素晴らしいと思う。
ただ、写真で分かりづらいがこの電飾、昔のディスコのミラーボールのように激しく点滅する。
まず、ここらへんからして?と思われるのだろう。

2
ご覧のように発生は生声ではなくマイクを使用。
岸和田など泉州地域の住民から邪道扱いされる所以がこれ。
まあ元気あっていいんだろうけど、祭って感じはあんまりしないかも。

3
激しく回転する山車。
これは非常に迫力があって素晴らしい。
特に山車を傾け、回転するのは非常に迫力がある。
こういうだんじり祭本来というかだんじりとして期待されるパフォーマンスレベルでいえば十分なレベルだと感じる。
この部分はもっと誇ってもいいと思うし誇るべき。

4
で、地元民から最も疎まれているらしいのがこれ。
ご覧のように伝統ある「祭」という格好ではいまいちありません。
特に山車の前にいるギャルたちの格好。
今日は祭事のはずだけど・・・

5
別町会の山車。
提灯の色は白とか赤とか町会によってまちまち。

6
また書くけど山車のやり回し?はさすがに迫力ある。
この祭、山車は立派だしやり回しに迫力はあるわでだんじり本来の部分は非常に素晴らしい。
だから尚更、観客からすればソフト面、とくに一部の人の「憂さ晴らし」化しているように感じる現状が何とも惜しい。

以上、大阪狭山市のだんじり祭の写真でした。
思うに、「祭」を伝統ある祭事、地域に根ざした信仰を元に五穀豊穣への祈願、または実りへの感謝などを根幹と考えるならば、この祭は多少間違った方向に進んでしまっていると言わざるをえないのかもしれない。

岸和田のだんじり祭が今でも一定に統制されている現状、たとえば素行不良者は祭に参加させてもらえない、茶髪など伝統に反する容姿は禁止などと比較すると、確かに統制がとれていないように感じ、だんじり本来の伝統に反した祭になっていると地元民から思われても仕方ない。

実際に祭を実行している地元青年団に、昔からあるだんじり祭の本来の意義を考え、その伝統を守っていこう考えがあるのかは分からないが、でも一方で思うのは、自分の考える伝統とは、頑なに昔から守られてきた約束事を一途に守ることに執着するのではなく、その時代に応じた新しい約束事を付け加えていくことで、その時代に即したものにすることだとも思う。

そう考えるとこの河内地域のだんじり祭も今新しい伝統を作っていく過程にある、とより一層前向きに考えれば、「恥ずかしい祭」とまでは思えない。
まあ特に大阪人以外から見たら、この河内地域のだんじり祭は、これはこれで非常に「大阪っぽい祭」であることは間違いないと思うので、これはこれでアリだと思う。

つまり、伝統を考える際に忘れてはいけないと思うのが、この祭が始まった意義であり意味だろう。
現状、地元民からクレーム対象にすらなっているこの祭がこの先どのような形になっていくのか、新しい伝統へと変化していくのか、はたまた消え去っていくのかをこれからも注目を続けていきたい。
個人的には、「恥ずかしい祭」と言われれば多少反論しづらい祭であることはそうだけど、だんじりの基礎としては非常に出来がよく、やり回しなど素晴らしい魅力あるものがあると考えているので、来年もまた見に行きたい。
ほんとだんじり自体は素晴らしいのにところどころ惜しい。

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